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交響的練習曲 [音楽]

シューマン 交響的練習曲 Op.13


最近読んだ野崎歓氏の『翻訳教育』に面白い一節がありました。

つねづね思うに、音楽家とはわれら翻訳家にとって最上の、理想的な役割モデルを提供してくれる存在である。 (中略) 一般に楽器を奏でる演奏家の行為とは、楽譜と聴衆のあいだに立ち、楽譜を音に「翻訳」する営みにほかならない。

言い得て妙でありますな。


原文が英語であれば、訳文と英語を照らし合わせて議論することができます。原文に忠実かつ読みやすい訳だとか、意訳だなとか、これは誤訳だろう、といった形で。しかし英語以外の言語になると私の場合はお手上げです。音楽鑑賞も同じで、楽譜がほとんど読めない素人愛好家には仲介者となる音楽家の演奏が全てとなるのです。

楽曲に対する知識が圧倒的に不足しているので、スコアに忠実なのかどうかなんぞ知る由もありません。にもかかわらず、感情表現が豊かであるとか、理性的な演奏である、と言ってしまうのは何とも不思議です。つまるところ、いろいろ聞く間に自分の感性により近いものを愛でるようになっていくのでしょう。


813409.jpg


交響的練習曲は1834年~36年に作曲され、初版、第2版とあり、さらにブラームスが校訂した第3版には遺作と呼ばれる5曲が含まれます。この5曲は難しすぎて弾けないと、当時のピアニストは主張したとも言われています。

遺作5曲を入れるかどうか、また入れるのであればどこへ挿入するのかがよく話題になるのですが、スコアをほとんど読めない身からすると音楽家の「翻訳」に身をゆだねるしか方法はありません。
ヘルムヒェンは遺作を途中に挿入しながら演奏しているようであります。


彼自身遺作の扱いについては、
「シューマンが何を望んでいたかはわかりませんが、
演奏者が独自の方法で演奏することにシューマンは賛成したと思います。
方法を模索するのは大変興味深いです。」
と語っています。
出典


さてその演奏。
自家薬籠中の物とでも言うべき清澄かつ精緻を極めたタッチが、混沌としたシューマンの世界に実によく合っております。
冷静怜悧に抑制された表現を基本とし、ペダルの使用も極めて少ないにもかかわらず、不安、焦燥、安堵、悦楽といった感情の起伏を見事なまでに表現しているのです。歓喜に包まれたフィナーレを聴くと自然と心躍らずにはいられません。ヘルムヒェンの奏でるフィナーレを聴くと必ず顔がほころぶので、外出中は怪しまれないように用心しているほどです^^;


YouTubeサイトへ飛ぶと演奏順序が記載されています。



参考資料
WQXR Frick collectionのインタビューから。
ニューヨークリサイタルでの交響的練習曲も聴けます。
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