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故人を偲ぶ  ブラームス ピアノ協奏曲第2番 [音楽]

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今朝、目覚めと同時にブラームスのピアノ協奏曲第2番が頭の中で鳴り始めた。天国的な響きのホルンのソロにピアノが寄り添う冒頭の旋律。停止ボタンを押さないと脳内演奏は止まりそうになかった。どちらかといえばピアノ協奏曲は1番の方が好きなので、2番はあまり聴かない。なぜだろうと思ったのも束の間、今日は最愛の祖父と祖母、そして伯父の法要の日だったのだ。


祖母の訃報を聞いた1年前にも不思議なことがあった。大往生とは分かっていても私の心は憔悴しきっていて、どんな音楽を聴いても落ち着かない。ところがふとブラームスの交響曲第2番を耳にしたとたん、心の靄が晴れたのをはっきりと覚えている。通夜に向かう電車の中でヴェルザー=メストとクリーヴランドオーケストラの演奏をエンドレスで聴いていた。聴けば聴くほど、涙と一緒に故人への感謝の念が溢れ出したのだ。


今日も行き帰りの車中で、ブロンフマンをソリストに迎えたピアノ協奏曲第2番の演奏を聴き続けていた。3人の遺影を目にした時も自然と第1楽章が鳴り響き、私の心と故人の魂が共鳴しているかのように感じた。


ブラームスの全盛期に書かれた交響曲第2番とピアノ協奏曲第2番は、長調の明るい曲ではあるのだけれど、哀調を帯びている。故人と過ごした日々に思いを馳せて幸福な心持ちになる一方で、ああもう二度とその姿を見ることはできないのだ、という現実と向き合う時、私にとってはブラームスの音楽がぴたりと合うのだろう。


帰宅後、今年6月にNHK BSで放送されたクリーヴランドオーケストラのブラームス演奏会の録画を久しぶりに観た。ヴェルザー=メストによると、「第1楽章は素晴らしいホルンの独奏とピアノの掛け合いで始まりますが、そこが重厚になりすぎると最終楽章が滑稽に聴こえてしまいます。同じように、第2楽章のスケルツォも優雅に演奏できないと終楽章が引き立たちません」、と。
ブロンフマンも同様の考えを持っているようだ。思い入れたっぷりに弾くことは極力避けどこまでも自然なタッチのピアノと、歌唱的な柔らかな響きの弦が融合する瞬間が実に心地よい。


今年2月の演奏会より



11/12シーズンのマイアミレジデンシーのブラームスはこちらから視聴可能。

悲劇的再び [音楽]

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Google Play MusicやApple Musicをはじめとして、日本でも定額ストリーミング配信が導入されつつある。私はApple Musicで有料メンバーになっているが、十分に活用できているわけではない。そんな中でストリーミングサービスの真打ちが登場した。ベルリン発のIDAGIOというサービス。現時点ではiOSのみ対応のためそれほど普及していないかもしれない。内容についてはまた別の機会に取り上げるとして、そのIDAGIOでなんとなんとヴェルザー=メストがグスタフ・マーラー・ユーゲント管弦楽団と録音したマーラーの交響曲第6番が配信中なのである。(IDAGIOアプリをiPhone, iPad, iPod Touchにインストールすると視聴可能。)このユースオケとはブルックナーやリヒャルト・シュトラウスの録音があり、時々客演もしている。

3月のクリーヴランドオーケストラとのマーラーが個性的で強烈な印象だったのに対し、こちらは極めて健康的なオーソドックスな解釈だ。健全な精神状態の(失礼!)フランツ先生がユースオケをぐいぐい引っ張って、眩いばかりの演奏を繰り広げている。音程が完璧のブラスセクションには惚れ惚れしてしまった。マイアミバージョンとは異なり、中間楽章はスケルツォーアンダンテの順で演奏している。


ユースオケとの演奏を聴いた上で、本日ふたたびオンデマンドになったマイアミの演奏会を聴き直してみた。ジェットコースターに乗っているような第1楽章は好き嫌いが分かれるかもしれないが、しなやかなヴァイオリンセクションが奏でる耽美的な旋律は何回聴いても素晴らしい。ユースオケには出せなかった艶やかな甘い響きに今夜も陶然となった。演奏前のトークでヴェルザー=メストがマーラーの6番は"A journey through the subconscious mind of Gustav Mahler”と言っていたが、"A journey through the subconscious mind of Franz Welser-Möst”でもおかしくないよなあという気がする。ヴェルザー=メストの感情の起伏がそのまま演奏に再現されているのではなかろうか。


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A journey through the subconscious mind of Gustav Mahler  -潜在意識をめぐる旅- (10/26 オンデマンド更新) [音楽]

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マーラー 交響曲第6番 イ短調 悲劇的
管弦楽 クリーヴランドオーケストラ
指揮 フランツ・ヴェルザー=メスト
マイアミ ナイトコンサートホール 2015年3月7日(?)のライヴ録音(10/26 更新 オンデマンドはこちらから(11/9まで)


マーラーは人生の絶頂期であった1903-04年に第6番を作曲した。
ウィーン随一の才女とも言われたアルマ・シンドラーと結婚し、第一子に恵まれ、そしてウィーン宮廷歌劇場の音楽監督として燦然と君臨していたまさにその時だ。
大作曲家を運命の打撃が襲うのは3年後だから、自分の将来を見越して作曲したと回想するアルマの証言は結果論的だろう。悲劇的という副題も少々紛らわしい。個人的には6番を聴いて悲壮感に打ちひしがれることはなく、むしろ何かをやり遂げた人間の勇姿が思い浮かぶ。不安、苦悶、悦楽、憤怒、憧憬。マーラーは心の中に内在するあらゆる感情を交響曲という形で見事に体現したのである。


ヴェルザー=メストは、本作を20世紀初頭のフロイトによる精神分析と結び付けて捉えてほしい、と演奏が始まる直前に指揮台の側から客席に向けて語っている。プレトークは一般的だが、演奏前に話すスタイルは初めてお目にかかったので正直びっくりしてしまった。「交響曲第6番はグスタフ・マーラーの潜在意識をめぐる旅なのです」と力説する。プログラムノートには載っていないからお話するんです、と前置きしてまで伝えるところ、フランツ先生の並々ならぬ思い入れがあるようだ。


14/15シーズンのマイアミレジデンシー、最大のイベントであるマーラー6番の演奏会がオンデマンドになったのでさっそく聴き直した。3/8のWCLVでは、3/6初日の演奏会が放送された。これがそのままオンデマンドになるものだと思っていたら、どうも違うようだ。プレトークの英語に相違があったのであれ?と思いつつ聴くと、トランペットがとある場所で音程を外したため、これは翌日の演奏に違いないと確信したのである。そつなくまとまっているのは確かに初日、第1楽章も初日の方が好みなのだけれど、凄みが増して圧巻の第4楽章となるのは2日目なのだ。まぁ何はともあれ、聴き比べは予想外だったので、思わず笑みがこぼれてしまった。


第1楽章。行進曲風の第1主題の後、1stヴァイオリンが不気味なほどに強く鳴り響き、不穏な空気を醸し出す。弦の響かせ方にはこだわりのあるマエストロらしい音楽作りだ。続く第2主題では、感傷的で悲痛な面持ちすら感じられる旋律をヴァイオリンセクションが艶めかしく歌い上げる。カウベルの音色が聞こえてくる中間部、コンサートマスターの甘美なソロが陶酔へと誘う。小休止も束の間、瞬く間に現実世界に引き戻され、畳みかけるように終盤へと向かうのである。ヴェルザー=メストのオケの煽り方が尋常ではないせいか、最初聴いた時は動悸が止まらなくなった^^;


中間楽章については、アンダンテ-スケルツォの演奏順序が採用さている。万華鏡のように変化する本作において唯一のオアシスであるアンダンテ・モデラート。リチャードキングさんのホルンと弦セクションがまろやかに溶け合い、至高の夢幻的な世界を作り上げる。キングさんのソロが今シーズン限りなのは本当に残念だ。
変わって激烈なスケルツォ。このテンポで音程が狂わず、アンサンブルが瓦解しないのは驚嘆に値する。首席代行から首席に昇格したDamoulakisさんの木琴が最高にカッコよかった。
チューバの杉山さんの厳かなソロが印象的だった第4楽章。最後まで一切弛緩することなく一気に駆け抜けた30分であった。高揚感と切迫感が漂う中、2回のハンマーの打撃を挟み、英雄の生涯が静かに幕を閉じる。



何かに取り憑かれたかのように突進するヴェルザー=メストの指揮に対し、オケは一糸乱れず完璧な合奏力で応えていた。最近ますます情熱的になっている気がするなあ、フランツ先生。
評価が分かれた1週間前のベートーヴェンとショスタコーヴィチのプロとは異なり、マイアミの各紙が挙って絶賛していた。今シーズンの私的ハイライトになることは間違いない。A memorable performance.


参考資料: The Cleveland Orchestra Miami Program Book





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