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充たされざる者 [和書]


充たされざる者 (ハヤカワepi文庫)

充たされざる者 (ハヤカワepi文庫)

  • 作者: カズオ イシグロ
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2007/05
  • メディア: 文庫



文庫本で1000ページ近くという分量におののいてしまい長らく避けていた本ですが、読みはじめるとあっという間でした。形式は実験的ですが内容は紛れもなくイシグロの世界です。


著名なピアニストである主人公ライダーは、中欧のある都市で開催される「木曜の夕べ」に招待され、演奏とスピーチをすることになっています。この都市は何やら危機的な状況にあるらしく、ライダーは救世主とみなされています。演奏会前日から当日深夜までの間に出会う人々が、ライダーに向かって延々と自分語りを展開し、ときにはなぜかライダーがその内容について既知であるという不思議な状況が続きます。ライダーは散々引っ掛けまわされた挙句、ピアノを弾くことなく次の都市ヘルシンキへと旅立つのでした。


最初に出会う初老のポーター、グスタフ。初対面のライダーに仕事や家族のことを長々と話し、娘と上手くいっていないので話を聞いて欲しいと頼みます。実際に会うと、娘のゾフィーとライダーは夫婦という設定で話が進むのです。え?どういうこと?全く分からなくなったので戻って読み返したほどです。ここで読者を混乱させるのは作者が意図したことらしく、この後も辻褄が合わずに物語が進行します。ゾフィーのエピソードで躓くと読み進めるのが難しくなるかもしれません。


情報は錯綜していても登場人物たちが口にするのは、記憶、過去のある出来事、才能、老いなど、イシグロが頻繁に扱う主題です。


例えば才能の問題。
ホテルの支配人、ホフマンの息子シュテファンは、ピアノが好きで両親も才能があると思っていました。ところが、あるコンクールで他の出場者との差を見せつけられ、両親は失望します。シュテファンは「木曜の夕べ」でピアノを弾くことになっており、ライダーがその演奏を聴いたところ、粗削りではあるけれどきらりと光るものがありました。全く才能がないわけではないのに、両親は息子を認めず、本番の演奏も聴きませんでした。一方、シュテファンは拍手喝采を受けますが、自分は井の中の蛙だったことを悟り別の街で研鑽を積む決意をします。
息子に才能がないと決めつけつけるのは思い込みが強すぎるように思いますし、一方でシュテファンが己を知り、精進したいと考えるのは、才能に対峙する姿勢としては好ましいものです。才能があるなしの判断は紙一重であり、決断したからにはどんな結果になろうとも責任を持たなければなりません。そういえば、ヴェルザー=メストは、優れた音楽家になるために必要なことは何かと聞かれた際、他の演奏家が努力、出会い、神のみぞ知る、と様々に回答する中、「才能」とバッサリ言っていましたね。


音楽好きの身としては、ライダーにはリハーサルの時間はあるのかしら、こんなにもたもたしていたら間に合わないですよ、と突っ込みながら読んでいました^^; ライダーにはツィメルマンさんが似合いそうだなあ。

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コメント 4

T.D

なかなか難しそうな本をお読みになったのですね。カズオ・イシグロさんは名前を知っているぐらいで読んだことがありませんが、才能に関する見解には少し考えさせられました。才能って一体何なのでしょうね。才能のある人にしか才能を見抜けないのなら、この世にどれだけそれを活かせず終わった人がいたのだろうと思います。

しかし、音楽を経験すると才能というものをひしひしと感じますよね。常人には無い特別な何か(=才能)を持つ人には努力じゃ敵わないというマエストロの意見に賛同です。ひょっとすると、努力だって才能なのかもしれませんが。

私事で恐縮ですが、久しぶりにブログを始めました。好き勝手に音楽の感想を書いたり、たまには趣味の写真を取り上げたりもしたいなと思っています。そして、もう少しクラシック音楽とヴェルザー=メストに興味を持ってくれる人が増えるといいな...と思って書いています笑(文章が堅苦しいのは私の悪いクセです)。よければ見てみてください。
by T.D (2016-07-28 00:04) 

menagerie_26

T.Dさん

カズオ・イシグロを初めてお読みになるのでしたら、『日の名残り』や短編の「夜想曲集』がお勧めです。翻訳調ではない土屋さんの日本語訳が素晴らしく、何度も読み返しています。イシグロ自身がミュージシャンを目指していたこともあり、音楽家と才能についての問題はよく取り上げられています。

マエストロのような才能のある人が努力を怠らずに研鑽を積むと、もう普通の人は手が届かないでしょうね^^;  

ブログを始められたのですね。おめでとうございます!!!さっそくお邪魔いたします^^

by menagerie_26 (2016-07-30 10:43) 

T.D

この夏にぜひ読んでみたいと思います。海外の著者の書籍は、翻訳家の力量次第で空気感が変わってしまうのがミソですよね。それも味と思えばなんともないのですが、私が子どもの頃に読んだ、慣れない翻訳家のシャーロックホームズで味わった「これじゃない」感が思い出されます...笑 そのせいか日本人作家中心に読んでいたので久しぶりの海外書籍になりそうです。なかなか手が届かなかったので良い機会をいただきました。

ヴェルザー=メストの音楽を聴くと、なんだかその曲の真相を教えられているような感覚になるのです。これはこれまでにない不思議な感覚で、まさに魅了されました。menagerieさんは私が知るより以前から彼に注目されているようですし、また色々と教えてもらえると大変嬉しいです。
by T.D (2016-07-31 00:32) 

menagerie_26

T.Dさん

最近、駒月雅子さんの新訳でシャーロックホームズを読み直しました。昔の訳と違って読みやすかったです。新訳が全て良いというわけではないですが、海外物は翻訳者次第で随分と変わりますね。

クラシック音楽の演奏も、翻訳という行為に通じるものがあると思います。
訳語が思いつかないと、自分が知っている範囲の言葉に置き換えてしまったり、省略あるいは余分に付け足してしまうことが起こりがちです。腕の良い翻訳者さんは、そういうことがなくて、原作のエッセンスを見事に日本語にしてくれますよね。
音楽も同じで、ヴェルザー=メストの演奏は、楽譜を精読できない私達に、作曲家の描いた世界を過不足なく提示するとでも言うのでしょうか。T.Dさんがおっしゃるとおり、まさに「その曲の真相を教えられているような感覚」です。細部に至るまで決して疎かにしない姿勢を尊敬します。

マエストロの音楽を今のように聴き始めてまだ5〜6年なので、知らないことばかりですが、興趣が尽きませんね!

by menagerie_26 (2016-07-31 10:36) 

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